「人の命を救うスピード」 ポルシェ 914/6のレスキューカー 前編

Photography :Robb Pricthard and Recaro Arch ive

どんなレーシングドライバーにとっても火災は最悪の事態だ。1970年代には、火災が有名なドライバーの生命を奪う主な要因だった。こうした悲劇をなくすため、レカロの協力を得て制作されたのが、この"高速消防車"だった。

クラシック・ポルシェを愛読の皆さんであれば「すべてのポルシェは特別である」という私の意見に同意してくださることだろう。それでも、いくつかのポルシェがほかのモデルに比べてさらに特別というケースがないわけではない。なかには限定モデル、スポーツモデルのフラッグシップ、重要なレースで好成績を収めた個体、もしくはセレブリティが所有していた1台というケースもある。それでも、ここに紹介する"慎ましい外観"の914/6GTほどめずらしいポルシェもほかにないだろう。

この914は、これまでに数百にのぼるレースに出走しながら、1度もフィニッシュしたことがない。なぜなら、この914はヘルベルト・リンゲの〝Rワーゲン"であり、世界最初のセーフティカーだからだ( Rはドイツ語でレスキューを意味するRettungsの頭文字)。1972年にレカロの協力のもとで製作されたこのクルマは、40年後に彼らが探しだして買い戻し、レストアが施された。この914/6Rワーゲンは、高性能な小型消防車をF1やスポーツカーレースのグリッド後方からスタートさせることによって、数え切れないほどの貴重な命をレカロが救ったことを示す"生きた証拠"というべきものである。



モータースポーツと危険は切り離すことができない。この世にレースというものが誕生した当初は、命知らずのドライバーたちがロールケージさえないレーシングカーに乗り込み、林や壁に囲まれたサーキットで激戦を繰り広げていた。しかも、頑丈な作りのヘルメットがF1で義務づけられたのは1950年代に入ってからのこと。それから数世代を経た現代では、サンドトラップ、ランオフエリア、セーフティバリアなどの存在が当たり前になり、ドライバーを保護するHANSデバイスやヘイロ(HALO)などが登場している。では、そうした思想の変化が起きたのはいつのことだったのか? これにはポルシェとポルシェのドライバーが深く関わっている。
 
ヘルベルト・リンゲは、レースがまだ危険極まりなかった時代に名を馳せたドライバーである。ル・マン24時間には15回も出場。とりわけ有名なのが、スティーヴ・マックイーン制作の映画を撮影するため、30kgの重さのカメラを膝の上に乗せて908を駆り、1970年のル・マンに出場したことだろう。これと並んで有名なのが、ハンス・ヘルマンとともにポルシェ550を駆って1954年のミッレミリアに参戦したときの"事件"だ。ステアリングを握るヘルマンは列車が迫る踏切に差し掛かったとき、遮断機の下を強行突破してクラス優勝を果たしたが、そのとき助手席に腰掛けていたのがリンゲだったのである。

--{リンゲが踏み出した最新の一歩}--
 
リンゲはやがて908や917といったハイパワーなレーシングカーの登場を目撃するが、それは薄いアルミや燃えやすいマグネシウム・パネルで作られたシャシーに脆弱な燃料タンクを積んだもので、深刻な事故が起きたときにドライバーが生き残れる可能性は極めて低かった。そこでリンゲは、自分の友人や仲間がサーキットで命を失うのを防ぐための最初の一歩を踏み出すことになる。1972年のことだ。
 
当時、ストローベイル(わらを固めてロープで結んだ一種の衝撃吸収材)などでサーキットの安全性を確保していたサーキット側が、多大な資金を投じてコースの大改修を行うことに消極的だったことは容易に想像できる。しかし、リンゲのアイデアは、効果的であるとともに効率的でもあった。
 
彼の調査によれば、ドライバーを死に追いやるもっとも典型的な例である火災が起きた場合、炎に包まれた状態が30秒以上続くと生存の可能性が急激に低下する。裏を返せば、たとえ火災が発生しても30秒以内に消火活動を行えばドライバーが生き延びる可能性が高まるわけだ。
 
レースのスタートでは、タイヤがまだ冷えているうえに燃料が満タンの状態で、その直後の1コーナーはアクシデントが発生する危険性がもっとも高い。そこでリンゲは、グリッドの後方から"ハイパフォーマンス消防車"をスタートさせ、レーシングカーを追走する形でオープニングラップを周回させることを考えついた。これにくわえ、サーキットの要所要所に同様の備えを施した消防車を配備し、いざというときには30秒以内に消火活動を行える態勢を構築したのである。
 
当時、F1のボスを務めていたバーニー・エクレストンはこのプランを気に入り、リンゲは自分のアイデアに沿ったクルマを製作する検討を開始する。そのとき彼が最初に頼ったのは、いうまでもなくポルシェだった。ラリードライバーのオヴェ・アンダーソンが1971 年モンテカルロ・ラリーで走らせた914/6 GT(シャシーナンバー057)は、将来的にテスト車両として使用されると見込まれて、ヴァイザッハの倉庫で眠りについていた。アンダーソンはギアボックス・トラブルでモンテカルロ・ラリーをリタイアしていたが、クルマはすでに修理が終わっており、リンゲの要望を耳にしたフェルディナント・ピエヒ(当時ポルシェの開発部門の責任者を務めていた)は彼の思いどおりに車両を改造することに同意していた。

--{リンゲが求めていたもの}--
 
リンゲは、完全な機能を有する"高機能高速消防車"を欲していたので、いくつかの消火器を足元に転がしているだけでは満足できなかった。当時の本物の消防車同様、およそ100kgの消化剤を収納できるタンクをギアボックスの上に据え付けたほか、パワフルなポンプ(エンジンカバー上に見える奇妙な出っ張りのなかに隠れている)と長いホースを搭載。助手席には医師が着座し、ドライバーともども耐火服を着用する。外観は赤と白でペイントされたが、パネルの内側にはモンテカルロ・オレンジがそのまま残っていた。
 


真新しいRワーゲンが最初に姿を現したのは1972年のADACニュルブルクリンク1000kmだったが、その実力が初めて発揮されたのはインターセリエの一戦だった。インターシリーズは、あまりにパワフルなためスポーツカー世界選手権から閉め出されたグループ6マシンなどがエントリーするレースで、Can-Am用に開発されたツインターボ・エンジン搭載の917/30がその代表選手だった。そのレースのスタートで、フェラーリ512MMに乗るヘルベルト・ミューラーは遅いマシンと接触。このクルマに押し出される形で512MMはコースとピットを仕切るガードレールに沿って宙返りしたのである。
 
この衝撃で250リッターが詰め込まれていた燃料タンクが割け、マシンはあっという間に火の手に包まれる。ミューラーはなんとか自力で脱出したものの、彼自身がまるでたいまつのように燃えさかり、ピットマーシャルのもとへと駆けだしていった。そのわずか数秒後、リンゲが駆けつけると燃えさかる炎に果敢に立ち向かったのである。
 
リンゲは1972年のF1グランプリにも数戦ほど立ち会ったが、1973年には安全に関する彼の思想がすべてのコースで受け入れられた。リンゲの活動は、ドイツのモータースポーツにおいてFIAと似た役割を果たすONSが管轄することになったが、車両の所有者をいつまでもポルシェにしておくわけにはいかなった。幸いにも、このプロジェクトにレカロが関心を抱く。そしてシート作りの観点から自動車の安全性に常に関わってきたことでも知られるレカロが914の購入資金を寄付することになったのだ。

編集翻訳:大谷達也 Transcreation: Tatsuya OTANI Words:Robb Pritchard Photography :Robb Pricthard and Recaro Arch ive

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