ポルシェを救い繁栄へとつなげた原点となった工場とは?

ポルシェがスポーツカーの製造を始めて70周年が過ぎた。実は最初のフォルクスワーゲン工場の80年でもある。すべての物語はそこから始まった。

2018年はポルシェの名を冠した最初の車が誕生してから70年の記念の年であった。このことを知らないポルシェ・エンスージアストは世界中どこを探してもいないだろう。
 
しかし、その年は最初の工場の定礎式からちょうど80年であることを見落としている人や、まったく知らない人が多いのではないだろうか。この工場こそ、10年後の終戦直後に、資金難にあえぐポルシェを救い、その後の繁栄へとつなげた原点といえる。
 
このフォルクスワーゲンの工場の礎石を据えたのは、あのアドルフ・ヒトラーである。1938年5月26日、キリストの昇天を記念する祝日だった。それから10年と1カ月後に、フォルクスワーゲンのコンポーネントを使用した最初のポルシェが、グミュントの木造の小屋でポルシェの職人の手によって生み出され、走り出したのである。
 
工場の定礎式は、それ自体が大々的なプロパガンダだった。鍵十字を描いた巨大な赤い垂れ幕が掲げられ、物々しい黒い制服に身を包んだ何百人もの親衛隊が目を光らせる中、ナチスお得意の仰々しい式典が執り行われた。その日、3 台の「フォルクスワーゲン(ドイツ語で「国民車」の意)」が披露された。標準のサルーンと、ルーフを覆うサンルーフを設けたサルーン、そしてコンバーチブルだ。
 
ヒトラーは演説で、新たな車をフォルクスワーゲンではなく「KdFワーゲン(歓喜力行団の車)」と呼ぶことを宣言した。寝耳に水の発表に、開発したフェルディナント・ポルシェは驚き、困惑した。息子のフェリー・ポルシェは、ご満悦のヒトラーをカブリオレに乗せて、専用列車が待つファラースレーベン駅まで運転していった。ポルシェ博士は後部座席に座っていた。フェリーはのちに自伝の中で、式典で制服を着ていなかった関係者は自分と父親だけだったと回想している。
 
工場は低ザクソン地方を流れるミッテルラント運河に面していた。この場所を選んだのは、KdFの上部組織であるドイツ労働戦線(DAF)トップのロベルト・ライの右腕、ボード・ラフェレンツ博士だ。ラフェレンツは小型飛行機を使って最適な場所を探した。最終的に、フォン・シューレンベルク伯爵とフォン・ヴェンズ家の領地にまたがる約52km2の区画に決定すると、ナチスはいつものように土地を二束三文で接収した。元フォン・シューレンベルク家の土地にはヴォルフスブルク城が建っており、それがのちに工場の名称となった。しかし当初は近隣の町の名前を取って、ファラースレーベン工場と呼ばれていた。
 
工場を設計したのはオーストリア生まれの建築家ペーター・コラーで、ヒトラーお気に入りの建築家アルベルト・シュペーアが顧問を務めた。コラーは工場の周囲に労働者やその家族を住まわせる新たな町を建設する計画にもあたった。これが現在のヴォルフスブルクである。
 
工場の完成間近になって、建設作業員を西部の防衛に回したヒトラーは、イタリアのムッソリーニに助力を求め、これに応じて7000人の労働者が送り込まれた。工場の建設は信じられないほどの急ピッチで進み、礎石を据えてからわずか1年半で完成にこぎ着けた。
 
この工場を形容するのに"大きい"という言葉では足りない。全長1.6kmにも及ぶ巨大な施設で、当時、ひと棟の自動車工場としては世界最大を誇った。1年目の生産目標は40万台。労働者を1万人と7500人の2グループに分け、シフト制で操業することになっていた。さらに3
万人まで増員し、生産台数を年間80万~100万台に増やす計画も立てられていた。その頃ドイツを走っていた車がわずか110万台だったことを考えると、とてつもない目標だったことが分かる(ちなみに、実際にビートルの製造が年間40万台を超えたのは1958年で、100万台の大台に乗ったのは1965年だった)。
 
ところがKdFワーゲンの製造が軌道に乗る前に、工場は戦時体制に突入した。結局、軍用車のキューベルワーゲンを5万台生産し、戦闘機の修理やV1飛行爆弾の製造などにあたった。当時ドイツのほとんどの産業がそうだったように、この工場でも強制労働が大々的に行われていた。
 
工場が戦火を生き延び、辛くも生産を再開できる状態で残ったのは、まったくの偶然にすぎなかった。アメリカ軍の爆撃で製造ホールの80%は破壊されたが、巨大な発電タービンのあるホールは奇跡的に無傷だった。これが破損していたら、おそらく工場は取り壊されていただろう。
 
1945年3月、KdFワーゲン市にアメリカ軍が到着した。この点でも運命は味方した。もし工場がロシアの占領区内だったら、残っていた施設は収奪され、戦利品としてロシアに持ち帰られていたかもしれない。
 
三つ目の幸運は、アメリカ軍がイギリス軍に工場を譲り、イギリス軍からお目付役として派遣されてきたのが、王立電気機械技術兵団(REME)のアイヴァン・ハースト少佐だったことだ。ハーストは、壊滅状態の工場を再び稼働できれば、敗戦に打ちひしがれている無職の人々に仕事を与えられ、復興への士気も高まるのではないかと考えた。そこで、さっそく残っていたパーツでビートルを組み立てて陸軍に提示したところ、2万台もの注文が入ったのである。ここから2000万台を超えるビートルが造られることとなった。
 
戦前、ポルシェはフォルクスワーゲンの販売台数に応じてロイヤリティーを得る契約を結んでいたが、これはナチスの千年王国の夢と共に消え去った。しかし1948年、フェリー・ポルシェはVWのトップに就任したハインリッヒ・ノルトホフを相手に新たな契約について交渉。設計コンサルタントの継続に加え、356の元となるメカニカルコンポーネントの提供も取り付けたのである。こうしてポルシェの未来は保証され、その車は今も私たちを楽しませてくれているのだ。

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA

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