カレラ・アバルトの真実│真のボディ製造元と、その製造数の解明①

1960年代初頭にスポーツカーレースで活躍したカレラ・アバルトこと356 BカレラGTL。そのボディはザガートが製造したといわれていたが、実はそうではなかった。自動車史家カール・ルドヴィグセンは、ポルシェ史の大著『Excellence Was Expected 』の改訂にあたって、真のボディ製造元と、その製造数の解明に挑んだ。

バルト・ボディのカレラが誕生した1960年に、私はニューヨークのパークアベニュー1丁目で『Car and Driver』誌の編集長を務めていた。ポルシェの新モデルについて伝える短い記事と写真は、イギリスの友人で同僚のエドワード・イヴズから届いた。ボディはアバルトの設計を元にミラノのザガートが製造したという彼の情報を私たちはそのまま掲載した。ポルシェの歴史を書くときには私も同じことを記した。だが、これがやっかいの元だった。
 
希少なカレラGTLについて研究者が調査を進めるにつれて、ザガートがボディを造ったという情報はどんどん怪しくなっていった。なにより、当のザガートがプロジェクトとの関係を否定したのだ。また、他のカロッツェリアの名前がいくつか浮上し始めた。『Excellence Was Expected』の改訂にあたって再調査が必要なのは明らかだった。


 
まずは背景を振り返ろう。1960年シーズンに向けてポルシェがカレラを改良したのは、1600ccGTクラスでのパフォーマンス向上が必要だったからではない。対抗馬のMG Aツインカムは脅威でアはなかった。しかし、ひとつ下の1300cc GTクラスではロータス・エリートとアルファロメオ・ジュリエッタがしのぎを削り、どちらもカレラのラップタイムに迫りつつあった。そこでポルシェは下のクラスに追い抜かれて恥をかく前にカレラの強化に乗り出したのである。
 
FIAのGTクラスでは、ホモロゲーション取得時の車重を下回らなければ、異なるボディの使用が認められていた。カレラは元々1712 ポンド(775kg)と軽かったので条件を満たすのは容易だ。1959年夏、ポルシェは356Bのシャシーに架装する軽量ボディ20台の製造を2社に打診した。スパイダーのボディを造った近隣のヴェンドラーと、"第一容疑者"のザガートだ。
 
イタリアではよくあるように、新プロジェクトの噂は瞬く間に広まり、1959年末にかけて、過去と現在の"友人"がボディ製造の仕事を求めてポルシェに接触してきた。そのひとりがトリノのカール・"カルロ"・アバルトだ。アバルトは1958年と59年に、助手のレンツォ・アヴィダーノと共に、小排気量のフィアットをベースにしたリアエンジンのスポーツレーシングカーを開発、販売していた。そのボディを製造したのがザガートだった。
 
ダーク・ミヒャエル・コンラートの調査によると、アバルトは1959年9月にモーターショーに出席するためフランクフルトに出向き、18日にフランクフルターホフ・ホテルでポルシェ首脳陣と会談していた。出席したのはフェリー・ポルシェと営業部長のヴァルター・シュミット、技術部門トップのクラウス・フォン・ルカーだ。

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words:Karl Ludvigsen Photography:Ludvigsen and Porsche Archiv

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