カレラ・アバルトの真実│真のボディ製造元と、その製造数の解明②

実際に356 BカレラGTLのボディを製造したのは誰だったのだろうか。アバルトにとっては波乱の時期だった。ちょうどミラノのザガートと袂を分かち、地元トリノにある経験の浅い小規模な会社からボディを仕入れるようになっていた。

カレラのプロトタイプ製造も、予定していたザガートではなく、そうした会社に依頼したと考えられる。歴史家のピーター・ヴァックは、1台目とおそらく2台目も、ヴィアレンツォ&フィリポーニという近隣のカロッツェリアが製造したとしている。
 
カルロ・アバルトはボディ製造の委託先変更を公にはしたくなかった。そのため、アバルトのファクトリーでクルマを最初に披露した際に、ザガートが製造したとエドワード・イヴズに話したのだ。しかしザガートは、カレラGTLのプロジェクトには結局は関わらなかったとドナルド・ピーター・ケインに証言している。アバルトは、製造を別の、まず間違いなく安上がりな会社に委託したことをポルシェに知られたくなかったのだろう。そんなことが分かれば、支払われる金額が引き下げられる恐れもあるからだ。
 
ライムシュピースは1月25~29日にかけて再びアバルトを訪問した。完成したクルマの納期を確認するためだったが、見通しは"バラ色ではない"と報告している。2月に2台、3月に1台、4月に5台、5月と6月に各6台で、注文の20台になる予定が組まれていたのだ。その一方で、イタリア人のボディ製造技術を目にして感銘を受けたライムシュピースは、「イタリアの金属の匠たちには信じられないような能力がある」とも述べている。


 
新モデルの正式名称はカレラGTLに決まり、最初の1台がツッフェンハウゼンに到着した。しかし、シートなど複数の手直しが必要なことが分かった。納車されたのは1960年2月末で、希望より大幅に遅かった。なにしろ当初アバルトは、確認のために概要を整えたクルマを前年の10月末には用意できるとしていたのだ。アバルトがプロトタイプボディの委託先を小規模な会社に変更したことで、遅れはいっそう大きくなった。
 
晩冬の雨の中で納車された1台目はひどい雨漏りをしていた。また、背の低いポルシェのスタッフが乗っても頭上の空間はなきに等しかった。そこで、シートレールの位置を変え、シートのクッションや背もたれの角度を変更すると、ヘッドルームを10cmほど増やすことができた。

ほかにも、フロントのホイールオープニングがあまりにぎりぎりだったため、特にタイヤがバンプした際などにステアリングの切れ角が制限されてしまうことも分かった。ライムシュピースの指示にもかかわらず、オイルタンクの搭載方法にも問題があり、冷却も不充分だった。
 
こうした問題点の中には2台目で判明したこともあった。2台目はカレラのエースドライバー、パウル・エルンスト・シュトレーレが購入し、ヘルベルト・リンゲと組んで5月初めのタルガフローリオに出走した。



「直行だった。アバルトからポルシェへ、ポルシェからシュトレーレへ、シュトレーレからシチリアへ。私たちはスタートし、クルマは走った。そして8時間10分10秒後にフィニッシュした。ファクトリーでまだ新車だったカレラが、同じ週にタルガで6位、クラス優勝を飾ったんだ」こう語ったシュトレーレは、翌年のタルガにもアップデートしたエンジンを搭載して出走し、アントニオ・プッチと組んでまったく同じ成績を収めた。
 
プロトタイプとシュトレーレのクルマのリアは、1960年のタルガに出走する前に明らかに手が加えられていた。エンジンカバーはルーバーで覆われていたが、さらにキャブレターの上にあたる上方の角にもルーバーが設けられ、中央下部にも2列増設された。冷却用ルーバーを増やす必要があったことから、短く切り詰めたGTLのテールは、同様のスタイルで造られた8年前の356アメリカロードスターと同様、車体下面からの温かい空気がエンジンの冷却ファンに大量に流れ込んでしまうという問題を抱えていたことがうかがえる。
 
変更点はほかにもあった。1台目のGTLは、ウィンドウレギュレーターを取り外し、より軽量なストラップ固定式になった。また、最初の2台はボディのサイドからジャッキポイントが飛び出していたが、これも平らにして、代わりにジャッキが当たる部分のシルを補強した。

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words:Karl Ludvigsen Photography:Ludvigsen and Porsche Archiv

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