ポルシェのサクセスストーリーを辿るグミュントへの旅

この記事は、『「グミュント」で偲ぶポルシェが小さな工房だった頃の歴史』の続きです。

村長はその使用を許可し、1982年から20番目のグミュント・クーペは30台ほどが展示されている1階フロアの特等席に置かれることになった。素地むきだしのボディは緑青が発生し、スチール製のドアとボンネットは他のアルミニウム部分より黒ずんでいたが、低い姿勢もあいまって、さながら"ラットロッド"スタイルを連想させるものであった。ヘルムートは室内側の塗装もこすり落とし、それはダッシュボードでも同様であった。ダッシュボードでは中央の、そもそも時計が収まるべき部分が大きな穴となって空いていた。時計は現在レストア中ということだが、時計の博物館に展示されてもおかしくないほどきわめて貴重なものらしい。

 
このグミュント・クーペも、70年前はコンクール・コンディションといってもよいほど素晴らしい状態だったのはいうまでもない。きっと木槌がボディパネルを叩く音がこだまする中で仕上げられたのだろう。フェルディナントとフェリーはまさにクルマのフロアボードの上から生産工程を監督しながら、この20番目の356が完成に近づく姿を目にしたのであろう。


 
彼らはきっと中古のVW 部品の品質にハラハラしていただろうし、購入した客が満足するかどうかはこの先、彼らが生産を続けていけるかどうかにも懸かっていた。しかし彼ら自身も製造する職人も心を込めてクルマを作り、購入した客も何の文句もつけず、無事に初期の生産をこなしたのである。
 
20番目のグミュント・クーペはこのミュージアムの目玉であることに変わりはないが、今後は静止された状態で展示されることはなくなるかもしれない。というのも、ここで所蔵車の走行管理を担当しているヘルムートの息子クリストフが、このグミュント・クーペも走行できるように計画しているからだ。彼は動態保存ということに非常に重きを置いており、最低限自力で動くことができなければ真の意味でのレストアではないと断言するほどだからだ。

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ヘルムートがこのクルマを手に入れる前のオーナーは6万3500kmを走らせていたので、エンジンはリビルドする必要があった。ガスケット、スパークプラグ、経年で朽ちかけたファンベルトなどの消耗部品はすべて新しいものに交換したのはもちろんだが、さらにピストンとバルブはすり減っていたので交換した。だが、他の機械部分はメインテナンスの範囲で済み、きわめて高いオリジナリティーが確保できたのである。


 
ところが昨年の春、ヘルムートは本誌『クラシック・ポルシェ』のためにパフォーマンスを発揮したときに、エンジンをダメにしてしまった。現代のクルマとは比べものにならないほどノイジーで狭い室内空間が瞬く間に、エンジンの苦しげな音とともに青白い煙で充満してしまったのである。「なんてこった!」クリストフが叫ぶと同時に私たちも建物の外へクルマを運び出した。「オールアルミニウム・ボディのおかげで運び出せた。シュトゥットガルトのクルマだったらこうはいかないよ。思わぬところで軽さが実感できたね」とはそのときのクリストフの弁。
 
グミュントはポルシェがここにいた頃からまったく変わらずに小さくてのどかな姿を保っている。村のパンフレットを見ると、ここはポルシェがいたほどにとても働きやすいところで、中世にできた古いタウンゲートを過ぎるとクルマを運転するのが楽しくなります、とある。ちょうど70年前にフェルディナントとフェリーがやったのと同じように。


 
フェルディナントは世界の自動車産業に大きな影響を与えたあと1951年春に亡くなった。それはちょうど4台のライトウェイト・グミュント・クーペがその年のル・マンを走る2、3カ月前のことであった。ポルシェはそこでクラスウィンを獲得するがそれは、その後誰も比肩することのできない金字塔をモータースポーツの世界に打ち立てる始まりでもあった。そして生産車の分野でも、当時まだ10代だった孫がやがて911を設計することになろうとは、フェルディナントといえども想像できなかったに違いない。

いや、ポルシェの名前が世界のスポーツカーを象徴する名に登り詰めることだって同じだ。そうしたサクセス・ヒストリーはすべてこの地、グミュントから始まったのだ。

編集翻訳:尾澤英彦 Transcreation:Hidehiko OZAWA Words:Robb Pritchard Photos:Robb Pritchard, with Helmut Pfeifhofer Porsche Automuseum and K S

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