パリ-ダカールで伝説を残したポルシェ959│開発までの道のり

この記事は、『「911をフルタイム4WDにせよ」959に見るポルシェ四輪駆動進化の記録』の続きです。

そんなときである。外部の力が将来のポルシェの駆動方式の設計に大きな影響を与えようとしていたのは。当時ポルシェのレース活動を支えていたタバコ・メーカーのロスマンズが、厳しい戦いで人気を高めつつあったパリ-ダカール・ラリーに勝つことを切望していたのである。この長距離イベントは世界中の報道関係者の注目を集めていたことから、スポンサーにとって商品をプロモートするには格好の場だったのだ。


同時に自動車メーカーにとっては勝利を挙げることで自らの総輪駆動テクノロジーの優位性を世に知らしめることができた。ロスマンズの夢こそがポルシェの背中を押し、ニューカー、タイプ953の開発を推進させたのである。 タイプ953は先のモデルが911SCを基本としていたのに対し、生産型カレラ3.2をベースとした四駆動車である。3164ccエンジンは劣悪なガソリンや砂漠の灼熱地獄にも耐えられるよう圧縮比を下げて最高出力を225bhpにデチューンして搭載。

テストを経てタフになったエンジンは、アウディ製の5段トランスアクスルにボルト留めされるが、そのトランスアクスルもケーシングの鼻よりずっと先にあるフロント・ディファレンシャルを駆動するよう改造された。フロント・ディファレンシャルはオーソドックスな設計だが、リアのディファレンシャルはスプールに置き換えられた。スプールとは左右輪を同時にロックする機構で厳密にはディファレンシャルとは呼べないが、差動の必要性がさほどなく軽量を重視するレースカーには向いており、当時のポルシェ耐久レース車両にも広く採用されていた。
 


911ではボディとサスペンションが一体的な構造を採っていたため、4WDドライブトレーンを組み込むのは前後で問題があった。リアのトーションバーのハウジングはまず邪魔だったし、サスペンションそのものも、下側のウィッシュボーンは使えたものの、フロント・ストラットを使用することはドライブシャフトを通すことから論外であった。結果、953のフロントは短いアッパーAアーム、新しい形状のハブキャリア、左右2本ずつのダンパーに総どっかえとなった。

1984年1月のパリ-ダカールに間に合わせるべく開発は急ピッチで進められた。テストは
ドイツではエーラ・レッシェンにある軍用オフロード・コースで、南フランスでも同様のコースで徹底的にテストされた。最初のテストで満足のいく結果を得たあと、続けて行なったニジェールでのテストはその多くをル・マンの英雄、ジャッキー・イクスの手に委ねた。


 
ロスマンズ・ポルシェはパリ-ダカールに3台をエントリー。ドライバーとナビゲーターは、ジャッキー・イクス/クロード・ブラッスール、ルネ・メッジ/ドミニク・ルモイヌ、ローランド・クスモウル/エリック・レルナーという布陣だった。見込み発進をしてしまったクスモウルは26位に沈んだが、イクスは称賛に値する6位を獲得した。勝ったのは、レンジ・ローバーに乗る2位ザニローリ/ダ・シルヴァ組に2時間の差をつけて圧勝したメッジ組だった。ほとんど現地を走ったことのない車でこうも簡単に勝ってしまったことに、周囲は驚きを隠せなかった。
 
レースやラリーを通じて新しい技術を開発し磨くことは、何年もの間に数多くの成果を生んだ。今日では当たり前のようになっているディスクブレーキも、また1986年に初めて使用されたツインクラッチ式セミオートマチック、ポルシェPDKもレースを通じて完成度を高めていったのだ。四輪駆動に関わる技術も例外ではない。1983~85年にかけてタイプ953が築いた基幹技術は、のちにグループBを目指すすべてのニューカーのお手本となった。だから、やがて大成功を収めるグループBプロジェクトの立役者は誰かといったら、ヘルムート・ボットといって過言ではないのだ。


そして、市販モデルの登場・・・次回へ続く。

編集翻訳:尾澤英彦 Transcreation:Hidehiko OZAWA Words:Keith Seume Photography:Porsche Archiv

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