ポルシェ356SLの軌跡│自動車史家が語る歴史のすべて

"SL"の名称を最初に使ったのは、実はメルセデスではなくポルシェだ。356でル・マンに挑戦するには箔を付ける必要があったのである。その一部始終を、自動車史家、カール・ルドヴィグセンが語る。

シャルル・ファルーはカー・エンスージアストで、名高いレースオフィシャルであり、フランスを代表する自動車誌『La Vie Automobile』の編集者としても有名なカリスマ性に溢れた人物だった。好意的な記事を書いてもらおうと、ヨーロッパの主要メーカーは新技術や最新モデルをこぞってファルーの手に委ねた。その意見は絶対だった。ディーラーも、取り扱うモデルのステアリングを握るファルーの写真を誇らしげに飾ったものだ。
 
自動車の灯火システムに関心を持っていたファルーは、技術の向上を実証する場として夜間レースの開催を思いついた。そして1923年、このアイデアをフランス西部自動車クラブ(ACO)事務総長のジョルジュ・デュランと、ラッジ・ウィットワース社フランス支社取締役のエミール・コキーユに提案し、賛同を得た。こうしてル・マン24時間レースが誕生したのである(編集翻訳注:自転車メーカーとして創業したラッジ・ウィットワース社は、素早い脱着が可能な、センターノックオフ式ワイヤーホイールを考案)。
 


ファルーは1923~1956 年の長きにわたってル・マンの競技委員長を務め、その間に前途有望なメーカーに参戦を呼びかけた。フェルディナント・ポルシェは、5年間のダイムラー・ベンツ時代に3歳年下のファルーと知り合い、親密な関係を築いた。第二次世界大戦後、フェルディナント・ポルシェとアントン・ピエヒがフランスに抑留された際も、その解放にファルーが重要な役割を果たしている。1948年9月の最終週に、フェルディナントの甥、ギスレイン・ケースがフェルディナントの代理としてファルーに電報を打っており、二人が連絡を取り続けていたことが分かる(編集翻訳注:ギスレイン・ケースはフェルディナントの秘書を務めていた)。
 
1950年10月、フェルディナントはケースと共にパリ・サロンに赴き、シュトゥットガルトで製造した356を2台展示した。その際に協力したのが、新たにフランスでポルシェの輸入代理店を始めたオーギュスト・ヴイエだ。レーシングドライバーでもあるヴイエは、翌年のル・マンに参戦するよう訴えた。
 
そのときの様子を、1950年代にポルシェのドライバーだったリヒャルト・フォン・フランケンベルクがこのように綴っている。「ヴイエはル・マンでの経験を詳細に伝えた。すると年老いた博士は、24時間レースの1100ccクラスで優勝するために必要な最高速と平均速度を尋ねた。ヴイエが数字を示すと、博士はすぐさま計算尺を取り出して猛然と計算を始めた。そしてしばらくすると、こう言った。『うむ、それならできるかもしれない。困難ではあるが、可能だろう』」
 
ポルシェのル・マン参戦の可能性を、したたかなファルーが見逃すはずはない。メーカーとしてのポルシェの最初のモデルを目にすると、ファルーもまた、1951年のル・マン参戦を検討するよう働きかけた。フェリー・ポルシェは、そのときの様子を自伝の中でこう記している。

「(1950年)10月末に、かの有名なシャルル・ファルーが長年の友人である父を訪ねてきた。ル・マンの代名詞として国際的に知られたレースオフィシャルだ。ファルーはこう切り出した。『ポルシェ車の名声は既にドイツの外にも届いている。私が耳にするのは称賛ばかりだ。来年の24時間レースに少なくとも1台エントリーしてはどうだろう。私たちにとっても喜ばしいし、1100ccクラスで優勝する可能性は十分にある』


父の答えとは・・次回へ続く

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo. ) Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words:Karl Ludvigsen Images:Ludvigsen archive

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