はじめてル・マンに参戦した戦後のドイツ車│ポルシェ356 SLのヒストリー

この記事は『ポルシェ356SLの軌跡│自動車史家が語る歴史のすべて』の続きです。

すると父は、あのかすかな笑みを浮かべて、『あした苛酷な試練に挑む用意があるかどうか、私には定かではない。だが、もちろん考えてみよう』と答えた。


『宣伝効果を考えてもみたまえ。挑戦する価値は十分あるぞ』とファルーは熱心にたたみかけた。決断を下すまでに一瞬の間があいたが、父はただ分かったというように頷いて、参戦の意志を示した。こうして二人の旧友は別れた。
 
私には素晴らしいアイデアに思えた。ただし、私たちの限られた施設できちんとした準備を整えるには、大変な困難が伴うだろう。とはいえ、準備期間は約8カ月あった」
 
ポルシェのル・マン参戦は、政治的な問題をはらんでいた。フォン・フランケンベルクはこう記している。「戦後のドイツ車がル・マンに登場するのはこれが初めてだった。ワークスチームは幾ばくかの不安を抱えていた。自分たちの車に自信がなかったのではなく、フランスでの民衆の受け止めに対してだ。特にル・マンはレジスタンス運動が非常に活発な地域だったから、住民感情がドイツメーカーに好意的だとは思えなかった。しかし、摩擦は起きないとシャルル・ファルーは保証し、実際にその通りになった」
 
もちろん、ポルシェのドライバーがヴイエらフランス人であったことも反感を和らげるのにひと役買ったことは間違いないだろう。



「私たちの限られた施設できちんとした準備を整えるには、大変な困難が伴うだろう」というフェリーの言葉は、謙遜からのものではない。356の需要が予想を大幅に上回る一方で、シュトゥットガルトの第1工場は依然として連合軍に占拠されていた。そこでポルシェは、ル・マン参戦に向けてツッフェンハウゼンのロイター社からさらに間借りをしたが、それは2台と4人の職人がやっと収まる程度の空間でしかなかった。
 
ツッフェンハウゼンの小メーカーが、せっかく得た初期の利益をレースのように浮ついたことに費やすのは、普通なら理にかなったことではない。だがフェリー・ポルシェの考えは違った。事業はすこぶる順調で、期待をはるかに超えるほどだったから、競技に進出するだけの資金はあった。「それに、私たちはまず最も安上がりな方法を採った。やがて、レース活動を通して通常の車を改良できることが分かってきた」とフェリーは回想している。 

レーシングカーのベースには、オーストリアのグミュントで製造したクーペが最適であることはすぐに分かった。軽量で頑丈なため、レース向きだった。オーストリアで造られたアルミボディの356/2は、ドイツで造られたスチール製の356より160kg以上軽く、ねじり剛性も高かった。また、グリーンハウスが狭く、クウォーターウィンドウも丸みがあり、空力的にもベースとして優れていた。

 
ル・マン・カーの準備を率いたのは、細身で長身、白髪のヴィルヘルム・ヒルトだった。このめったにタバコを手放さないヴィースバーデン生まれのエンジニアは、戦中にポルシェに加わり、一時は会社を去ったが、1951年にレーシングカー開発の責任者として復帰。以来、長年にわたってポルシェのレース活動を支える立役者のひとりとなった。ヒルトは戦前、アウトウニオンの先進的なレーシングバイクであったDKWの設計者としてレースに参戦しており、その経験をポルシェで大いに生かした。


どのような手を加えたか?・・・次回へ続く

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