2台のポルシェ356SLがル・マンに初登場したとき│準備は災難続きだった?

ヒルト率いる少人数のチームは、クーペに手を加えて空気抵抗を減らし、スピードを向上させた。最も目立つ変更はタイヤを覆うスパッツだ。フロントはタイヤの切れ角を確保するために膨らんでいる。これは、ポルシェがベルリン・ローマ間レースに向けて造った60K10 KdFワーゲンや、チシタリアのためにデザインしたクーペに見られたコンセプトの進化版といえる。ほかにもドラッグを低減するために、ノーズとテールの下を整形板で覆い、フロントのエアダクトにカバーを取り付け、クウォーターウィンドウはルーバー付きのパネルで覆った。
 
ブレーキはバッキングプレートに通気孔を設けて冷却を向上。また、ピットストップでのロスを減らすため、スペアタイヤを取り囲むように18ガロンの燃料タンクを搭載し、ボンネットを突き抜けた位置に給油口を設けた。変更点はまだある。後席の代わりに木箱を据え付け、ルールで搭載が義務づけられていたスペアパーツを収納。運転席はバケットシートにし、ボンネットとエンジンカバーは素早く開閉できる仕様とした。エンジンは控えめなチューンナップで出力46bhpに高めた。
 
ル・マンの舞台となる高速サーキットに合わせて、ルーフから延びるもう1本のワイパーが加わった。また、夜間にカーナンバーを照らすライトが右リアに取り付けられた。


 
ポルシェはレースモデルの公的な名前を356SLとした。"SL"は軽量スポーツを意味する“Sports Leicht”(シュポルツ・ライヒト)の頭文字である。メルセデス・ベンツが300SLに使用する1年前のことだった。シュトゥットガルト製356とは異なるモデルを"それらしく"見せるため、ポルシェは簡素な4ページのリーフレットを印刷して356SLを発表した。これは、ル・マン参戦には量産モデルとしてホモロゲーションを取得する必要があったからだが、それだけでなく、需要があればこうしたレースモデルを提供する用意があったことも示している。
 
1951年のル・マンに向けた準備は災難続きだった。まず、現地でアクスルレシオのテストを行った5月4日に、チームマネージャーのパウル・フォン・ギヨームがアクシデントを起こし、356SLを大々的に破損してしまった。その数週間後にも、ポルシェのメカニックがアウトバーンを別の356SLで走行中に、2度目の大事故に見舞われた。


 
ポルシェは本番に向けて、「1回目と2回目の事故の残骸から1台を造り上げた」とフォン・フランケンベルクは書いている。それほどのダメージだったから、再利用できたのはフレームやボディではなく、メカニカルパーツだけだった可能性が高い。
 
いよいよ迎えた本番、ル・マンに2台の356SLが揃った。外見上はまったく同じで、カーナンバーは46と47だ。ところが雨の中で行われた練習走行で、47号車がクラッシュしてしまう。ひどいダメージではなかったが、決勝までに修理を完了するのは不可能だった。こうして、たった1台での参戦となった46号車をドライブしたのは、準備に加わったポルシェのインポーター、オーギュスト・ヴイエと、その友人のエドモン・ムーシュだ。


これ以上ないという締めくくりに・・・

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo. ) Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words:Karl Ludvigsen Images:Ludvigsen archive

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