ポルシェにとってこれ以上ない物語に・・・│ル・マン24時間とポルシェ356SL

この記事は『2台のポルシェ356SLがル・マンに初登場したとき│準備は災難続きだった?』の続きです。

1951年のル・マンの物語は、これ以上ない締めくくりとなった。46号車は24時間を無事に完走しただけでなく、平均速度73.5mph(約121km/h)で、1100ccクラスでの優勝を成し遂げたのである。完走29台中の総合20位で、同クラスでほかに唯一の完走だったDBパナールのひとつ前であり、1500ccクラスで優勝したジョウェット・ジュピ

ターより上位だった。最高速度は100mph、最速ラップの平均速度は87.3mph(約140.5km/h)に達した。
 
こうしてワークスとしての初参戦でクラス優勝を成し遂げて以来、ル・マンはポルシェの年間スケジュールで最も重要なレースとなった。ル・マンで得られるヨーロッパの記者からの注目は、他のレースをすべて合わせたより多かったのだから当然である。初挑戦の陣頭指揮を執ったのはフェリーだった。父フェルディナント・ポルシェは1951年1月に死去し、成功を見届けることはできなかったのである。
 
その年、356SLはさらに成功を重ねた。8月はリエージュ-ローマ-リエージュ・ラリーに出走し、1100ccクラスで2位、1500ccカテゴリーでは優勝した。続くパリ・サロン直前の9月末には、パリ近郊のモンレリーで速度記録への挑戦が行われた。356SLは1100ccクラスで3種類、1500ccクラスでは11種類もの新記録を打ち立てた。数日後には、記録を更新した1台が、ヨーロッパで最も名高いモーターショーであったパリ・サロンに登場し、そのときの汚れに覆われたままの姿でポルシェのスタンドに展示された。この偉業は大々的に喧伝された。
 
翌1952年シーズンに向けて、ポルシェは借用中のロイターのガレージで356 SLの第2シリーズを4台製造すると、引き続き様々なレースに参戦した。5月のミッレミリアでは、1500ccの356SLがクラス1位でフィニッシュ。ル・マンには356SLが3台エントリーし、うち1台がクラス優勝に輝いた。苛酷なことで知られるリエージュ-ローマ-リエージュ・ラリーでは、356 SLがライバルを完全に圧倒した。総合1位、3位、4位、10位でフィニッシュしたのだ。これは、駆け出しのスポーツカーメーカーにとって画期的な大成功だった。


 
1953年のル・マンに向けて、ヴィルヘルム・ヒルトは356のルーフラインを下げて前面投影面積を減らした。また、スプリットウィンドウを1ピースに変え、フロントタイヤのカバーは外した。だが、メカニカルトラブルに見舞われてル・マンはリタイアに終わってしまった。
 
その後、356SLは1.5リッターのエンジンを搭載して、FIAがこの年から開催したヨーロッパ・ラリー選手権に投入された。ヘルムート・ポレンスキー/ヴァルター・シュルーター組は、最終戦のリスボン・ラリーを3位で終えたが、無事に年間王者に輝いた。ポレンスキーは1954年にも、同様の356SLでリエージュ-ローマ-リエージュ・ラリーに出走し、総合優勝を果たしている。
 
現在ポルシェ・ミュージアムに収蔵されている356SLは、シャシーナンバー356/2-055である。このナンバーから、オーストリアの元製材所で、主に競技参加のために製造された後期の1台であることが分かる。同様の356SLは、オーストリア人のオットー・マテ(ナンバー52)や、ベルギー人のジルベルト・ティリオン(ナンバー61)によって、レースやラリーに参戦した。
 
私は1958年にニュルブルクリンクのパドックで356SLを目にした。過去の輝かしい戦績がペイントされていたが、ヒルトの社用車としてずいぶん使い込まれた様子だった。ポルシェのレー
ス予算は限られていたため、使えるものは何でも利用したのだ。やがて、誕生したばかりのポルシェ・コレクションに譲り渡すまで、ヒルトは356SLを大切に使い続けていた。

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