ポルシェ事務所に多大な名声と大きな経済的利益をもたらしたマシン開発

1933年3月17日、長い交渉ののち、ザクセン州に本拠地を置く自動車グループ、アウトウニオンと750kgのフォーミュラレーシングカーの製造に関する契約が交された。チーフエンジニアのカール・ラーベ率いる少数のポルシェの技術者チームは、数カ月たらずのうちにミッドシップ車、タイプ22の開発に成功し、春の間にケムニッツにあるアウトウニオンで最初の“Pレーシングカー”(この“P”は“Porsche”の意味)の製造に取りかかることができた。タイプ22を設計することはポルシェ事務所に多大な名声と大きな経済的利益が得られるものであったため、予防措置として設立された“Hochleistungs-Fahrzeug-Bau GmbH”は解散することが可能になったのだ。

このアウトウニオン タイプ22レーシングカーのほかに、この年の最も重要な開発任務は、NSU社から依頼された小型車であった。このタイプ32の設計作業は8月に開始され、リアに積んだ空冷水平対向4気筒エンジンに、ポルシェのトーションバー式サスペンションを組み合わせることが計画された。11月10日、NSU取締役フリッツ・フォン・ファルケンハインが設計を承認、これを受けてハイルブロンに拠点を置くコーチビルダー、ドラウツ社が模造皮革に覆われた木製ボディを備えた複合構造のプロトタイプを2台製造した。さらにシュトゥットガルトのアウグステン通りに拠点を置くロイター社は、3台目のプロトタイプとしてオールスチール製のボディを製造している。

1920年代終わり頃から、困難な経済状況を踏まえた安価な小型車、すなわち“国民車”(これが“フォルクスワーゲン”というドイツ語の文字通りの意味)の構想がさまざまな自動車メーカーによって繰り返し検討されてきた。1月17日、フェルディナンド・ポルシェ博士はこの問題に関して、個人的な見解を述べた“ドイツ国民車の製造に関する趣意書”をベルリンのドイツ帝国交通省に提出した。この論文の中で概要が述べられているタイプ60は、博士の指揮のもとで開発された8台目の小型車に当たる。とりわけツンダップ社とNSU社からの委託によりポルシェ設計事務所が開発した車は早くものちのフォルクスワーゲンの技術面・スタイル面での要素を先取りしたものだった。

6月22日、“Dr. Ing. h.c. F. Porsche GmbH”はドイツ帝国自動車産業連盟(RDA)から正式にドイツ国民車(フォルクスワーゲン)の設計と製造の注文を受けた。最初の契約はプロトタイプを1台造るというものであったが、1934年12月7日には契約上のテスト車両の数は3台に増えた。

フォルクスワーゲンプロジェクトについての作業に加え、設計事務所は1934年のレースシーズン中は、もともとポルシェ タイプ22として開発されたレーシングカー、アウトウニオンPについても配慮を欠かすことはなかった。早くも1月には、ベルリンAVUSサーキットでフェルディナンド・ポルシェ博士も参加して試験走行が行われる。アウトウニオンPは最初の年に3つの世界記録を達成したほか、4つの国際ヒルクライムイベントに加え、ドイツ、スイス、チェコスロバキアのグランプリレースでも優勝を収めた。

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