フェルディナンド・ポルシェ博士の逮捕と釈放・・・ポルシェが辿ってきたヒストリー

戦争終了後の1945年6月、Dr. Ing. h.c. F. Porsche KGのツッフェンハウゼンの工場は、最初はフランス軍当局により、本国送還を待つロシア人戦争捕虜の一時収容キャンプとして使用された。8月、アメリカの部隊がこの工場を接収しトラック修理工場になった。

8月8日、グミュントのポルシェ工場はイギリス軍政府から作業再開の暫定的な許可を得る。チーフエンジニアのカール・ラーベをトップとする約140人のポルシェ従業員は、“原動機付トラクター、ガス発生装置、およびその他の民生用装置についての設計作業を請け負うこと”ならびに“原動機付車両と農業機械”を修理することが許可された。具体的な設計作業は、ケーブルウィンチから水力タービン、建物の付帯設備、スキーの締め具などに及んでいた。

8月上旬、連合軍政府の命令によりフェルディナンド・ポルシェ博士はグミュントで逮捕され、他の産業界の著名人とともにバートナウハイム近郊クランスベルク城の“特別拘留キャンプ”に拘禁された。しかし、証人の供述のおかげで9月中旬には早くも無罪放免となり、釈放された。

11月中旬、フェルディナンド・ポルシェ博士はバーデンバーデンに赴いてフランスでのフォルクスワーゲンプロジェクトの再開について話し合うというフランスの委員会からの誘いに応じる。しかし1カ月後、何の契約も交わされないうちにフェルディナンド・ポルシェ博士と息子フェリーおよび娘婿の弁護士アントン・ピエヒは、バーデンバーデンでの2回目の話し合いの場でフランスの諜報機関により逮捕された。

1946年、フェリー・ポルシェは3カ月にわたる拘留後の1945年11月に釈放されてバート・リッポルトザウに自宅軟禁されたが、フェルディナンド・ポルシェ博士と弁護士アントン・ピエヒは5月にパリに身柄を移された。ポルシェ博士はそこでは囚人として、最初はフランス人エンジニアにルノーの小型車4 CVの開発についてアドバイスをしていたが、1947年にはディジョンの刑務所に移送されることになる。

6月、スイスの顧客ループレヒト・フォン・ゼンガーからグミュントのポルシェ設計事務所に連絡があり、4シーターのクルマの依頼があった。イギリス軍当局の許可を得て、ポルシェ タイプ352として設計された。ミニチュアモデルが作成され、ボディはエルヴィン・コメンダによりデザインされたが、これはのちのポルシェ356と驚くほど類似していた。

8月、ポルシェ社はケルンテン州が開催した貿易産業見本市に参加した。グミュントで製造された製品がポルシェという会社の名前で登場したのは、これが初めてだった。具体的には、水力タービン、ケーブルウィンチ、スキー場のリフト、刈り取り機用のツメ、そして“フォルクストラクター”をベースにしたさまざまなタイプのトラクターなどが出展された。

12月15日、カルロ・アバルトとルドルフ・フルシュカの斡旋により、チシタリア社の代表であるトリノの実業家ピエロ・ドゥジオと広範囲にわたる開発契約が結ばれた。グミュントのポルシェKGはこの顧客のために、小型トラクターや水力タービンに加え、グランプリレーシングカーのタイプ360と、2シーターのミドシップエンジン搭載のスポーツカー、タイプ370の設計作業に着手した。

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