スポーツカーブランド「ポルシェ」が誕生するまで│グミュントロードスターの作成

1947年、グミュントのポルシェKGのデザイナーはグランプリレーシングカー、タイプ360に全力で取り組んだ。このデザイナー達がチシタリア社のために開発した車は時代を大きく先取りしたもので、ドライブトレインにはスーパーチャージャー付1.6リッター12気筒エンジンを搭載、さらにパートタイム式の4輪駆動システムを装備していた。またツーリングスポーツカーのタイプ370にはミッレミリアのような長距離レースで戦えるようにするため、2リッター水平対向8気筒エンジンが計画された。しかしイタリアの顧客の資金不足により、チシタリア社のレーシングカーは試験段階よりも先に進むことはなかった。

4月1日、ドイツの会社に財産没収の危機が迫っていることを見越して、オーストリアに“Porsche Konstruktionen GmbH”(本社:グミュント)が設立され、4月24日に正式に商業登記された。新しい会社はポルシェ博士の娘ルイゼ・ピエヒとチーフエンジニアのカール・ラーベをトップとし、Dr. Ing. h.c. F. Porsche KGのオーストリアにあった部署の従業員と機械類が引き継がれた。

7月17日、タイプ356 “VWスポーツカー”の設計作業がスタートし、1938年にさかのぼるタイプ64“ベルリン-ローマカー”をベースとした車のボディの初期の図面が作成された。

証人の供述が好意的だったにもかかわらず、フェルディナンド・ポルシェ博士と弁護士アントン・ピエヒは1947年に入ってもフランスに拘留されたままであったが、8月1日、チシタリア社からの開発依頼による利益で得られた百万フランスフランの保釈金と引き換えに、ようやく2人は釈放された。戦争犯罪の嫌疑でポルシェ博士に対してフランスで着手された捜査は、正式な起訴にまでは至らず、1948年をもって終了となっている。

1948年春、社内内開発コード番号356.00.105のもとで設計が進められてきた車が実際に製造された。こうしてスポーツカーブランド、ポルシェが誕生したのである。6月8日、ポルシェ タイプ356のプロトタイプ(車台番号356-001)の走行準備が整い、ケルンテン州政府はこの車に特別に1回限りの公道走行許可を与えた。最高出力35psのVWエンジンをミドシップに搭載したこのスポーツカー“グミュントロードスター”は、車両重量わずか585kg、最高速度は135km/hに達した。

スポーツカーメーカー、ポルシェは、最初からレースを新しい開発/実験の場として活用していた。8月1日、インスブルックの公道で開催されたレースで、ヘルベルト・カエスがステアリングを握ってポルシェタイプ356 “No. 1”が参戦し、デモンストレーションラップで好タイムをマークした。

この年の後半、クーペおよびカブリオレ仕様のリアエンジンのポルシェ356の生産が開始された。スイスの企業家ループレヒト・フォン・ゼンガーは、必要な資金、欠けていたいくつかのスペアパーツ、シートメタルを提供し、スイスへの輸出用にポルシェのスポーツカーを5台購入。ゼンガーはホテル経営者で自動車販売業者のベルンハルト・ブランクとともにスイスの自動車販売業者AMAGアウトモビール・ウント・モトーレンAG社とポルシェとの将来的な協力関係の基礎を築いたのであった。

9月、フェリー・ポルシェはバート・ライヒェンハルにおいて、フォルクスワーゲンヴェルクGmbHの取締役でのちの社長と、将来を見据えた契約を結んだ。これよりも前、フォルクスワーゲン工場はイギリス軍政府によって接収され、少佐アイヴァン・ハーストの管理のもとで車の生産が開始されていた。フォルクスワーゲンはVWビートル1台につき今後5ドイツマルクのライセンス料をポルシェに支払うことに加え、ポルシェのスポーツカー向けの部品供給を行うこと、およびポルシェがフォルクスワーゲンの販売組織とサービス網を利用できることに合意した。その代わり、ポルシェのエンジニアはヴォルフスブルクの開発部門に対してコンサルタントとして支援を行うことになった。

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