フェルディナンド・ポルシェがこの世を去ってからのポルシェヒストリー

1951年1月30日、自動車設計者にして会社の創業者だったフェルディナンド・ポルシェ博士が75才でこの世を去った。

3月14日、ジュネーブモーターショーにおいて、スイスへのポルシェのスポーツカーの輸出に関してポルシェKGとAMAGの間で正式な合意がなされ、さらに4月5日には主要代理店契約が結ばれた。

歴史の浅い自動車メーカー、ポルシェにとって、モータースポーツの重要性が増しつつあった。前年にオットー・マテがステアリングを握って国際アルペンラリーで成功を収めたのに続き、ポルシェはル・マン24時間レースでクラス優勝を果たし、国際的な注目を集めた。1.1リッタークラスで優勝したのは、アルミボディのポルシェ356 SLクーペで、これをドライブしたのはフランスでポルシェのインポーター兼主要代理店を営んでいたオーギュスト・ヴイエとエドモン・ムーシュだった。8月にはリエージュ・ローマ・リエージュ・ラリーでパウル・フォン・ギヨーム/フォン・デア・ミューレ伯爵組がクラス優勝を果たし、やはり大きな注目を浴びている。

この年、356の合計生産台数は1,364台に達し、ポルシェKGにとって大きな成功の年となった。年末までにポルシェの従業員は214人にまで増え、売上高は1100万ドイツマルクを突破した。翌年には自動車のラインナップが充実し、クーペとカブリオレのほかに軽量の356アメリカ ロードスターも登場することになる。

1952年の初め、“ポルシェ ブランドの友人に向けた雑誌”として、ポルシェの顧客向け雑誌、クリストフォーラスが創刊され、5月には、プライベートなポルシェ オーナーの最初の公式な団体としてポルシェクラブ ホーエンジブルク(のちにポルシェクラブ ヴェストファーレンと改称)が設立された。

6月、ポルシェKGはアメリカの自動車メーカー、スチュードベーカー社から開発依頼を受けた。ポルシェ356は多くのレースで信頼性の高さを実証。ドイツスポーツカー選手権で優勝したほか、ニュルブルクリンクの国際アイフェルレースではプライベーターのグレックラー・ポルシェが初戦にして優勝、またル・マン24時間レースではヴイエ/ムーシュ組がクラス新記録を樹立した。さらにリエージュ・ローマ・リエージュ・ラリーでもポルシェは圧倒的な存在感を示している。

11月、ロイター社の近くに位置する第2工場の新しいメインの建物で車両の生産が開始した。年末までに、経営部門、設計部門、営業部門もここに移転している。

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